明るい音楽と暗い音楽

さまざまな音楽が世の中にはあふれています。私たちは音楽を聴くことでその音楽に対する「イメージ」を連想します。「印象」を感じるといってもいいかもしれません。アップテンポな音楽と、メロウな音楽とでは受ける印象が当たり前のようですが、違うのです。

それは音楽の表現方法にもおおいに関係しています。ただ、それだけではないのです。音楽を創るために定められた12音階、それをスケールとして並べたものは、大別すると「メジャーキー」と「マイナーキー」にわけることができます。それは同じ構成音をどう並べるかということでしかないのですが、メジャーキーは明るく、マイナーキーは暗く感じるものなのです。その基本要素を踏まえれば、音楽のクリエイターは自身の音楽で表現したいことをより多くの人に伝えることができるのです。

私たちがメジャーキーを明るい、マイナーキーを暗いと捉えるのは、共通認識としての「スケール感」のようなものがあるからでしょう。私たちは示し合わせたように「ドレミファソラシド」と「言う」ことができます。それは退屈な学校での音楽教育を経て受けた唯一の恩恵なのですが、それらの素養がメジャーキーを明るい、マイナーキーは暗い、と感じさせるのかもしれません。

「音楽が音楽として成立している」ということはとても不思議なものです。私たちは感性と理解力を持っています。「それは音楽だ」と理解することができて、そしてそれを楽しむということもできるのです。私たちの理解力は自然の音と作られた旋律を聞き分けることができ、そしてそれを楽しむこともできます。同じように、「明るい」と「暗い」の音楽上の違いも、感覚で理解することができるのです。楽しい気分になりたいときは楽しい音楽を、心を鎮めたりしたいときには暗い音楽を選択して聴くということもできるのです。

音楽は私たちが「理解」して「感じること」ができて初めて成立します。そこにはある程度の共通認識も必要ですし、「それは音楽である」ということが理解できることが必要です。それは自然に身につけたり学校で学んだりするものなのですが、「良い響き」を「良い」と感じることのできる素地は、後天的なものです。生まれた時から世の中には音楽が溢れていますから、私たちは音楽を感じることができるのかもしれません。鳥の求愛の囀りを聞き分けることは出来ないのは、日頃そのようなものと触れ合っていないからです。理解できないためです。

音楽を音楽として楽しむことができるのは、実は僥倖なのかもしれません。ただの響きの積み重なりを「音楽」として理解できることは、この世に生きている奇跡なのかもしれません。音楽を音楽として理解できることは非常に文化的であり、考えることができるからあらゆるエンターテイメントが成立しているのではないでしょうか。ただ感覚だけではなく、「暗い」、「明るい」と理解できるからその芸術が成立しているのです。

私たちが文化的であるかぎり、芸術がなくなることはありません。私たちが生きているかぎり、音楽はなくなりません。音楽を理解できる以上、それは「音楽」であり続けるのです。「暗い」だとか「明るい」というのは、私たち以外の動物には関係のないことであり、理解できないのですから。