変遷する音楽の楽しみ方

音楽は古来から親しまれ、楽しまれていたものです。音を組み合わせ、私たちの心を癒したり、躍動させる存在である音楽は、古来は「生演奏を聴く」しかありませんでした。それはもちろん「録音する」という技術がなかったためでもあります。録音できなければ、その場で演奏されたものを楽しむ、あるいは自ら演奏したり歌ったりして楽しむしかなかったのです。

音楽は不思議なものです。歌の巧さの違いや声の違いはあるとしても、誰でも「歌う」ことはできるのです。ひとつの旋律がそこにあり、それをみんなで歌うことができれば、その場にいるみんなで「音楽を共有」していることになります。ともに歌い、ともに楽しむことで成立する一体感というものがあります。旋律として定められたものは目には見えなくても確実に存在するものです。聞こえていなくても思い浮かべることができれば、それはすでに音楽として人に「認識」されているものになるのです。

それは「その場に流れていない」のに「存在する」ということです。音階の組み合わせ、音の組み合わせが「イメージ」出来れば、そこに音楽が存在することと同じになるのです。録音されていなくても、人々は音楽を口ずさむことができました。音楽がそこにあるという状態が作り上げられていたのです。そのようにして、古来から歌やリズム、そして伴う「踊り」などが存在していたのです。人々はそれを楽しみながら生きていました。

やがて「蓄音機」が発明されると、音楽は一気に姿を変えました。その時、その一瞬の演奏でしかないはずの「音楽」が「記録」できるようになったのです。記録された音楽は再生させることができます。音楽が再生されると、その時の演奏がその場を満たすのです。演奏者がそこにいなくても、その場にその時の演奏が再現されるのです。この瞬間から、音楽は生でしか聴けないものから「記録され、何度でも楽しめるもの」へと進化したのです。そして「演奏して人に聴かせること」は、「記録すること」でも実現することができるようになりました。

音響嬉々編集機器は発達しました。進歩の度に音楽は高精度で記録されるようになり、記録の過程で生まれる新しい表現方法も生まれていったのです。そのようにして音楽は進化し続けます。私たちも進化する音楽を自然に楽しむことができるようになっていきました。やがて音楽は「持ち運んで聴く」ということができるようになりました。それも周囲に音を漏らさず、自分の耳だけに音を届けることが可能になったのです。これにより、私たちは極々身近音楽を携帯し、いつでも好きなときに音楽を聴けるようになったのです。音楽はよりパーソナル化し、私たちの好みは細分化し、音楽はさらに深みを増していきます。技巧も多岐に渡り、表現方法も無限に編み出され、今では数え切れないほどの音楽が世の中に存在しているのです。そして、一度記録された音楽は色あせることなく存在し続け、いつまでも聴くことができるようになりました。

ですが「生演奏」が廃れたわけでもありません。音楽を生で聴くということを私たちはやめてはいないのです。「その瞬間だけの音」の素晴らしさを忘れてはいないからです。

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