音楽の好みは人それぞれ

音楽にはさまざまな種類があります。それは一般的には「ジャンル」と呼ばれたりします。または音楽を論理的に体系化し、学問として捉えたときにはその旋律や構成を分解し、理論として解析していくことも可能です。音楽を構成する「要素」は実に多岐に渡ります。その音楽が、その曲が、そのひとつひとつのフレーズが、どのような音色、どのような音の成分で構成されているのかを考えてみても、実にさまざまです。

「芸術」は、「学問」として成立するものです。ですが、学問として極めればだれでも感動的な音楽を作り出せるわけではありません。音楽を想像することには一種の「才能」が必要です。「才能」とは目には見えず、論理的に解析することも出来ないものです。人間ひとりひとりがもつ「素養」、人間ひとりひとりの努力の成果、あるいは自然に出来ることだからです。音楽は「創る」ということがなければ流れることはありません。自然界に沢山音は存在するのですが、私たちはすでに「時の刻み方」を知っています。1秒、1分をより芸術的区切りする方法を知っているのです。それは学んでいなくても、生きていく中で、また教育を受けてきた中で、自然と身についたものです。

それらの心が心地よくなるような時の刻み方、いわゆる「拍子」は、自然界では絶対に再現できないものなのです。ですから「4拍子を一定のテンポで正確に刻む」というだけで、それは「音楽」になり得ます。そのようなさまざまな刻み方を軸にして、旋律があり、伴奏があり、整然と重ねていけば重厚なオーケストラに発展するのです。単一の楽器、単一の旋律で成立する音楽もあれば、100人で合奏する音楽もあります。どのような方法でどのような音楽を奏でるのかは、私たちの「自由」であり、そのようにして奏でられた音楽のうち、どのようなものを聴くのかも私たちの自由です。

その「自由」は「好み」という目には見えない指標で、各人が自然に選択するものです。希望に満ち溢れた音楽もあれば、退廃的な音楽もあります。透き通るような自然なサウンドもあれば、鼓膜を破らんばかりの重金属のような轟音もあります。それらの音楽は作り手、演奏者の好みや感性を反映したものであり、それらに共感できたり、刺激を受けたりすることの出来る人が、自らの時間をその音楽に捧げます。

音楽の「好み」は理論的には解析できません。何がどのようなキッカケで、その音楽が好きなのか、そのジャンルが好きになったのか、なかなかわからないものなのです。音楽は実に奥が深いものです。含んだ音の要素から、解析することはできてもその音楽がどのような人に愛されるかまでは、学術的にはわからないのです。それほど音楽は自由です。自由であるからこそ、無限の可能性を秘めているのです。音楽の可能性は私たちに無限の創作意欲を与えます。創作意欲はポジティブなものです。音楽の作り手は、一度その道を歩み出すとなかなか抜け出せなくなるものです。音楽を創るカタルシスと、聴いて楽しむカタルシスはまた少し違ったものであるからです。無限に存在する可能性の中から、その音楽を好きになった「奇跡」に感謝しながら音楽を楽しめば、その時間はより深いものになるのではないでしょうか。

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