日本の音楽教育

日本では幼少期からの教育の一環として「音楽」も取り入れられています。ですが、教育上の音楽はテレビやラジオで流れるようなきらびやかなポピュラー音楽とはほど遠いところに位置しています。それはある意味正しい音感を子どものころから身につけさせたいからでもあるのですが、一般的な学校教育での音楽履修の意義は子どもにとっても大人になっても曖昧なままなのです。

義務教育の過程において、誰もが音楽を学んできました。その中にはリコーダーや鍵盤ハーモニカなどによる演奏、そしてそれらの合奏、また決められた歌を歌う合唱などが組み込まれていたと思います。それらの取り組みで私たちが学んだのは「アンサンブルの素晴らしさ」などではありませんでした。体良くいえば「協調性」などの「情緒」を身につけていたのです。

日本の教育ではこの「協調性」や「情操教育」という言葉が実に便利に用いられています。「みんなで一つのことを」だとか、「協力することで芽生える絆」という形のないものを、学んでいるようです。その実、学校の音楽は「退屈」なものではなかったでしょうか。音を楽しむどころかみんなと同じように歌わなければいけないだとか、合奏の輪から外れてはいけないということに縛られすぎていたものです。その結果、本来は楽しみながら、感じながら身につけていくはずの「音楽」が、実に退屈なものになってしまうのです。テレビやラジオでは楽しげな音楽が流れていて、それらの音楽をカラオケで歌うことは好きでも、学校での合唱は嫌だ、ということになってしまうのです。

その原因はシンプルです。「指導者」が最悪です。日本の学校教育における「音楽」の指導者は、クラシックなどを専攻したりしてきた方々がほとんどなのです。そのような方々が生徒に指導要領で定められた「音楽」を説いているのです。生徒は好きでも嫌いもない音楽を、「教科」として、「科目」として強要させられ、やむを得ず学んでいるのです。学校の授業であれば出席しなければいけないのです。テストをこなさなければいけないのです。そして合唱などの取り組みは成績にも影響する要素なのです。そのような状況の中、学校の音楽教師は生徒の反応などはおかまいなしで事業を進めます。ピアノをかき鳴らし、歌わせ、クラシックの音楽を流し、解説し、伝わるはずもない楽典を少しずつ生徒に飲み込ませようとします。

日本の学校教育における「音楽」は、何の意味もありません。ただの学校生活の思い出の一部として、多少記憶に残るだけです。テストも曖昧、何を覚えさせているのかも曖昧で、さらには「協調性」や「取り組む姿勢」を判断するなどのようなまったく理不尽な評価なのです。そうでいて、専門的に音楽の道に進みたい生徒にとっては学校の音楽の時間は何の得にもならず、むしろ邪魔なほどです。何のためにあるのかわからない授業である「音楽」は今も日本の子どもたちの時間を無駄に奪っているのです。

音楽に何を求め、音楽から子どもたちに何を与えるのか、という点がまったくブレているのです。しかし、ポピュラー音楽などは日々流行が変わってしまうので、授業などには取り入れられるわけもありません。学校では楽典を噛み砕きながら、退屈な授業を続けるしかないのです。

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